十三湊遺跡
とさみなといせき
中世十三湊の歴史と安東水軍
鎌倉時代から室町期にかけて港町として栄え、数々の貿易を行っていたと伝えられる幻の中世都市十三湊。中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられています。その他、複数の文献に、巨大な富を抱え、各地と交易を結んだ豪族「安東氏」の存在と共に記録されています。
この中世港町がどのように位置し、どのような役割を持つ町だったのか、また、1340年に起こったとされる大津波は本当にあったのか、その解明のために1991年から始まった十三港遺跡発掘調査では国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室が調査に当たりました。
この1991年~1993年の調査によって、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることが明らかになり、これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付られています。
調査班によれば、中世十三湊の町並みと推定されたのは東を十三湖、西を日本海にはさまれたやり状の砂嘴で、広さ約55ヘクタール。中央部を南北に推定幅4~5メートルの道路が貫き、街の中心部の道路と交差する形になっています。土塁の南側には、板塀に囲まれた短冊形の区画が整然と並び、京都の町家に似た庶民の住宅街が類推され、都市的な暮らしぶりや当時の人々の賑わいが伝わってくるようです。また、北側には十三湊の中心的な館があったことが分かり、当時の支配者の住居跡ではないかと推測されています。
その他、中国製の陶磁器、高麗青磁器などが出土しており、広く海外とも交易を行っていたことを裏付けることとなりました。これまで伝承と後世の文献でしか語られなかった中世幻の都市、十三湊。都から遠く離れたこの地域に、素晴らしい文化を持った都市は確かに存在し、海を越え、遠く海外と貿易を行いながら発展していたことが明らかとなったのです。
福島城跡平安時代の終わり頃、12世紀に作られた十三湊は、15世紀後半までの長い年月を国際貿易港として、環日本海社会の中心都市として栄えてきました。そして、海外との交易を深め、十三の繁栄を支えていたのが、今では謎の人物とも言われる安東氏の存在でした。
安東氏の先祖にあたるのが、平泉奥州藤原氏と共に激動の時代を生き抜いた安倍氏です。現在の奈良県と大阪府に連なる「生駒山」には、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟を長とする一族が住んでいたと伝えられていますが、神武天皇の東征によりその一族が崩壊、神武天皇の手が届かない津軽まで落ちのびてきたと伝承されています。その子孫であるのが安倍貞任です。安倍貞任は、1060年に敗死し、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が乳母と共にここ津軽へと落棲、後に安東氏を起こした始祖と言われています。
やがて、安東氏は「十三湊」を本拠地とし、巨大な勢力「安東水軍」率い、十三湊を国際貿易港として繁栄させていくことになるのです。
しかし、安東氏が築き発展させたと言われるこの十三湊は、日本史にもほとんど現れず、遺跡の発掘調査が行われるまで、言わば知られざる「もう一つの日本」でした。当時、日本のすぐ北には樺太などの少数民族、東北北部から道南にかけての地域が蒙古(元)と高麗(朝鮮)、沿岸州の各国が相互に交流を行い、日本海を中心とした一大文化圏を築いていたのです。そしてその「もう一つの日本」の中心として栄えた場所がここ市浦の十三湊だったと言われています。
所在地
五所川原市十三