立佞武多特集
立佞武多概要
立佞武多は、明治中期から後期を中心に行われた五所川原市の伝統民俗で、「立佞武多」の名称は平成の復活の際に名付けられたものです。高さ約12間(約21メートル)の山車が、なんと数百人もの若者に担がれて町内を練り歩いたといわれ、その勇壮な姿は、12キロ離れた金木地区からも見えたと伝えられています。
現代の大型立佞武多は、およそ高さ23m、重さ19tの大きさで「立佞武多の館」内の「立佞武多製作所」で製作されています。その題材は歴史上、物語上の人物などにこだわることなく、その時勢を反映したものも製作されています。
祭りは、毎年8月4日〜8日の5日間の日程で開催され、中心市街地を練り歩きます。
市内の町内・高校・祭り団体・企業などの大中小の様々なねぷた・立佞武多とともに3台の大型立佞武多が運行され、囃子や踊り手が華を添えます。
五所川原市民の「もつけ」魂が生んだ立佞武多、その迫力と楽しさを是非ご体感ください。
立佞武多の変遷と復活
豪商・大地主たちの力の象徴
明治から大正時代、五所川原は津軽の豊かな農林水産資源の中継地として大いに栄えていました。
そうした中で繁栄していた豪商、大地主が自分達の力の象徴として、夏祭りに山車(ネプタ)を出すようになりました。競い合いが始まり、ネプタはどんどん巨大化し、高さ20mを超えるようになっていきました。30mにも及ぶネプタもあったと伝えられています。
街角で出会うと言い合いから喧嘩ともなり、互いのネプタを壊したりすることもあったようです。ヤッテマレの掛け声も、「やってしまえ!」からきたものとも言われています。
消えゆく巨大ネプタ
大正時代、電気の普及とともに街中に電線が張り巡らされ、ネプタは高さが制限されたことにより次第に小型化していきました。さらには戦争の足音が近づくとともに祭りも縮小していきました。
そして、戦争。さらには戦中(S19)・戦後(S21)の2度の大火により資料のほとんども失われ、大型ネプタは次第に人々の記憶から薄れていきました。
昭和20年代中頃から各町内の合同運行が再開しましたが、巨大ネプタが登場することはありませんでした。
昭和30年代後半には企業によるネプタも加わり、昭和40年代には、経済の発展とともに夏祭りとしての賑わいを再び見せていました。
しかし、昭和末期から平成に入ると、バブルの崩壊、地域経済の悪化、少子高齢化などによりその賑わいも再び失われつつありました。
発見、そして膨らむ夢
平成5年、祖父が県内、東北までにもその名を轟かせた豪商「布嘉(ぬのか)」に仕えた大工であったという方の家から、巨大ネプタの台座の設計図が見つかり、大きな話題となりました。
すると翌年、明治から昭和初期の五所川原を時代背景にした劇が市民団体により演じられました。その劇中に高さ7mの巨大なネプタが突然登場し、大変な驚きと喝采を浴びました。その劇に関わったスタッフの中で巨大ネプタへの思いが徐々に大きくなっていきました。
1世紀ぶりの復活
平成8年、巨大ネプタを作ろうと市民有志が団結しました。「立佞武多(たちねぷた)」と命名され、市民の募金、材料の支援、技術力の提供などたくさんの思いが一つとなり、ついに高さ16mの立佞武多「武者」が復活しました。
岩木川河川敷に展示されたネプタを見ようと、市内はもちろん近隣の市町村からも多くの人が訪れました。そして1週間後、古習に合わせ火が放たれ、昇天していく幻想的風景を携わった有志たちは感動と達成感に満たされ見守っていました。貴重な思い出の1貢にと・・・
巨大ネブタ出陣
復活の余韻に浸っていた翌年の平成9年、青森県から五所川原市に対し、平成10年12月に東京ドームで開催される「活彩あおもり大祭典」に立佞武多展示の依頼が届きました。市は、その参加とともに平成10年の夏祭りでの立佞武多運行を決定し、以降「五所川原立佞武多」として青森県を代表する夏祭りの一つとなりました。
市は制作費はもちろんのこと、運行の妨げとなる電線の地中化や段差の解消など積極的に運行復活を支え、市民は手探りながらも知識と労力を出し合って、平成10年夏、ついに立佞武多「親子の旅立ち」の運行がスタートしました。
平成16年には、20mを超える大型立佞武多3台を格納し、常設展示する「立佞武多の館」がオープンし、祭り期間中以外でも立佞武多を見ることができるようになっています。